みんな大好き、チャイナタウン!安いしウマいし楽しいし。国家歴史登録財の観光街です。
你好(ニーハオ)、ハワイナビです。今日はホノルルのダウンタウンにある、チャイナタウン(Chinatown)をご案内しましょう。

新鮮な食材なら、ファーマーズ・マーケットかチャイナタウン!
チャイナタウンの成り立ち

ハワイ系の人々を見かけることも多いチャイナタウン。
1852年、砂糖きびやパイナップル・プランテーションの契約労働者として、最初の中国人移民が広東省中山市からハワイへやってきました。月給3ドルの5年契約。それ以前からもハワイには、停留した船から降りハワイに暮らす中国人水夫たちの存在がありました。中国人女性が不足していたため、いずれの中国人移民も、その多くが、主にハワイアン女性、さらにポルトガル女性と結婚することになります。

川沿いのリバーストリート(手前)。
プランテーションでの仕事がお金にならないことを早々に悟った中国人労働者は、その大半が5年契約を更新することなく、事務職や召使い職に就いたり、自分で商売を始めます。現在のチャイナタウンの端に位置するリバー・ストリート(River Street)の周りに、そうした中国人の開いた店が集まったのがチャイナタウンの始まりです。

旧正月のフェスティバルでにぎわうチャイナタウン。
1880年までに、中国人の数は25,000人に増加しました。これは当時のハワイ総人口の20パーセント以上にあたり、ハワイ王国は、ハワイアンやポリネシアン人口が減少している事態を憂慮。1883年になると、中国人移民の受け入れ数を制限します。

サウス・キング・ストリートにあるバンク・オブ・ハワイ(奥)。
先立つ1882年、アメリカでは中国人移民の流入を阻止する中国人排斥法が成立。1898年、ハワイがアメリカの準州になって以降1900年代の始めには、ハワイでも同法が施行されます。それまでにハワイへ移住した中国人は46,000人になっていました。
20世紀に入ってからのチャイナタウン

チャイナタウンとホノルル港は目と鼻の先。
チャイナタウンが最も栄えたのは1930年代といわれます。当時、人々はクルーズ船でハワイへ到着。チャイナタウンから1ブロック離れた先の波止場から、上陸後まっすぐ、この街を訪れる旅行者や船員も多かったとか。1940年代には、プールバーやビアホール、安酒場や売春宿などが立ち並ぶ、ミリタリーの歓楽街となります。

つぶれたバーのほかに、開いているのか閉じているのかわからないような外観のバーもチラホラ。
戦後は、いかがわしい飲み屋が集まる、ドラッグディーラーや売春婦、ホームレスの溜まり場、あるいは昼間でも1人で歩けない危険な場所ともいわれ、荒廃していたチャイナタウン。観光地として本格的に息を吹き返したのは21世紀に入ってから。ホノルル市郡やホノルル警察、地元の努力により、「エキゾチックな観光タウン」としてにぎわいを取り戻しました。
どこからどこまでがチャイナタウン?
北はリバー・ストリート(River Street)
南はヌウアヌ・アベニュー(Nuuanu Avenue)
東はノース・ベレタニア・ストリート(N. Beretania Street)
西はニミッツ・ハイウェイ(Nimitz Highway)
までの15ブロック、およそ0.15平方kmがチャイナタウンとされますが、実際には、ヌウアヌ・アベニューよりさらに1本、南寄りのベゼル・ストリート(Bethel Street)や、ノース・ベレタニア・ストリートをより東に越えたエリアも含めて、もう少し広くとらえられています。
たとえば、チャイナタウンの観光スポットとしてガイドブックに掲載されることも多いチャイナタウン・カルチャル・プラザやハワイ出雲大社は、上記の15ブロック以外の、ノース・ベレタニア・ストリートを山側に向かって渡った一角にあります。
市バス(ザ・バス)も通る、チャイナタウンを貫くメインストリートが、海側のキング・ストリート(King St)と、山側のホテル・ストリート(Hotel St)。
キング・ストリートと、ホテル・ストリート、ベレタニア・ストリートは、海側から山側へと伸びるヌウアヌ・アベニュー(Nuuanu Ave)を境に、「サウス South」と「ノース North」に変わります。
ヌウアヌ・アベニューから南(アラモアナ寄り)は
サウス・キング・ストリート/サウス・ホテル・ストリート/サウス・ベレタニア・ストリート
ヌウアヌ・アベニューより北(ホノルル空港寄り)は
ノース・キング・ストリート/ノース・ホテル・ストリート/ノース・ベレタニア・ストリート
になります。
<キング・ストリート King Street>
キング・ストリートを南北に歩いていきます。
 サウス・キング・ストリート(S. King St)とベゼル・ストリート(Bethel St)交差点。 |
 交差点近くにワイキキトロリーの停留所が。 |
 ビジネス街を背にして歩いていきます。 |
 ドラゴンが舞い飛ぶチャイナタウンのバンク・オブ・ハワイ。 |
 道路の反対側もチャイナタウンらしくなってきました。 |
 「Dim Sum(ディムサム)」の張り紙が。飲茶のことです。 |
 軒先に並ぶ野菜や果物。中がマーケットになっているようです。 |
 入ってみましょう。 |
 ザ・鶏ワールド。 |
 思いがけず広い店内。奥には魚屋が。 |
 乾き物も。 |
 外に出るとケカウリケ・ストリートとの交差点。オアフ・マーケットが。 |
 オアフ・マーケットを通り過ぎると魚屋が。 |
 「Green frog(アオガエル)」1lb(0.45kg)で$10.50。 |
 美味しそうというよりキレイ~。 |
 蟹に鮑にロブスター! |
 店構えがカラフル! |
 「SAIGON VIDEO(サイゴン・ビデオ)」 |
<リバー・ストリート River Street>
ノース・キング・ストリートから川沿いに出たら、そこがリバー・ストリート。リバー・ストリートを山側へ歩きます。
 川沿いのリバー・ストリート。 |
 フォーで有名な「Pho To Chau」。 |
<ホテル・ストリート Hotel Street>
リバー・ストリートを1ブロック歩いて右折すると、ノース・ホテル・ストリート。川を背にしてチャイナタウンの中心部へ戻りましょう。
 バス停の先、左側はマウナケア・マーケットプレイス。右側はオープンモール。 |
 オープンモールは、ノース・ホテル・ストリートとノース・キング・ストリートに挟まれたケカウリケ・ストリートにあります。 |
 キッチュな雑貨も。 |
 食材を求める地元住人。 |
 マウナケア・マーケットプレイスの中に入ってみましょう。 |
 中庭の菩薩像にはお供えが。 |
 アジア各国の味を試せるフードコート。 |
 中国・韓国・ベトナム・タイ・フィリピン料理や・・・ |
 シンガポール料理も。 |
 オープンスペースの中庭があります。 |
 中国の縁起物。 |
 奥にはローカルのご年配が集まる理容室が。 |
 マウナケア・ストリートとの交差点。 |
 金銀財宝♪ |
 いろいろな個人商店が。 |
 ときどき、いまどきな飲食店を見かけます。 |
 ベゼル・ストリートとの交差点。名称がサウス・ホテル・ストリートに変わっています。 |
 チャイナタウンを抜け出たビジネス街。 |
<マウナケア・ストリート Maunakea Street>
マウナケア・ストリートを山側から海側へ下りましょう。
 ノース・ベレタニア・ストリートとの角。フラワー&レイショップが。 |
 マウナケア・ストリートにはフラワー&レイショップが集まっているんです。 |
 ノース・パウアヒ・ストリート(N. Pauahi St)との交差点。 |
 その昔、ホノルル港へ到着する人々へ掛けるレイの需要を満たすためにチャイナタウンに多くの店が出来たとか。 |
 平日は店内でレイを作っている姿が見られますが、週末のせいか誰も作っていませんでした。 |
 右手のカラフルな門はマウナケア・マーケットプレイスへの入口。 |
<ヌウアヌ・アベニュー Nuuanu Ave>
ヌウアヌ・アベニューを山側から海側へ向かってみます。
 ベレタニア・ストリートからキング・ストリートへ向かいます。 |
 アートギャラリーが多いストリートです。 |
 ハワイアン女性の肖像画で知られるペギー・ホッパーのギャラリー。 |
 アートでチャイナタウンを活性化するムーブメントがあります。 |
 HIS専用トロリーの停留所がアリ。 |
 ノース・ホテル・ストリートとの交差点。 |
<ベゼル・ストリート Bethel Street>
チャイナタウンの境界線。ここからがチャイナタウンといわれています。1本南のフォート・ストリート・モール(Fort Street Mall)は、ビジネス街の一角となります。
 この公園に隣接するのが・・・ |
 ハワイ・シアターです。 |
ワイキキからチャイナタウンへ
ワイキキからチャイナタウンへは市バス(ザ・バス)で行くことが出来ます。
クヒオ・アベニュー(Kuhio Ave)の山側バス停から、2・13・19・20・42・B(CityExpress!)番に乗車。特に、2・13番はチャイナタウンの中心部ノース・ホテル・ストリート(N. Hotel St)を通るので便利です。2・13番バスの場合は、マウナケア・ストリート(Maunakea St)との交差点を過ぎたら右手のマウナケア・マーケットプレイス(Maunakea Market Place)前で下車してください。
19・20・42・B(CityExpress!)番利用の場合は、ノース・ベレタニア・ストリート(N. Beretania St)とマウナケア・ストリート(Maunakea St)交差点付近で下車し、海側へ向かって歩いていきましょう。所要時間は約30分です。
ワイキキ・トロリーも便利です。レッドラインに乗車して、チャイナタウンの停留所で降車。所要時間約30分。ほかに、旅行会社のツアー客専用のトロリーなども走っています。
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離れているようで実はワイキキから直通で行けるチャイナタウン。 |

チャイナタウン観光は早めの時間がオススメ。
以前に比べて安全になったといわれるチャイナタウンですが、日中でも、ちょっと普通には見えない怪しげなヒトや、ホームレスの人々とすれ違うことも。またチャイナタウンのほとんどのお店は午後3時頃には店じまいしますので、散策は早めの午後までにどうぞ。
チャイナタウン歴史こぼれ話

中国系移民のほかに日系移民も多く住んでいました。
最後に、チャイナタウンの歴史こぼれ話をひとつ。実はチャイナタウンは1886年と1900年の2回にわたり、大火事によってその大半が灰と化しました。1886年の3日3晩続いた大火事では8ブロックが全焼。7000人にのぼる住民が家を失ったと伝えられます。
もとどおりの復興を果たしたチャイナタウンを再度、大火事が襲ったのは13年後のこと。

1900年の大火事は17日間にわたって続きました。
1899年、チャイナタウンでペストが発生。ハワイ政府は約7000人の住人を強制隔離しましたが、犠牲者は増えるばかり。翌年、政府はやむなく、ペストの発生エリアであるベレタニア・ストリートとヌウアヌ・アベニューの角地周辺を焼きつくして、ペスト流行の終焉を図ろうとしました。ところが、消防局との連絡不備、さらに突然、風の向きが変わったことにより、火事は手がつけられないほどに広がり、チャイナタウンのほぼすべてを焦土と変えてしまったのです。

不死鳥のように甦ったチャイナタウン。
当時、アメリカでは中国人排斥法が成立しており、ハワイでも、経済的に大きな力を持ち始めた中国人移民に対する風当たりは強く、中国人排斥の動きがありました。そこで歴史研究家の中には、「あの大火事は、中国人の力を抑え込み、チャイナタウンから出ていかせるため、ハワイ政府の陰謀だった」という説を唱える人も少なくありません。
もしも陰謀が本当だったとしても・・・その目論見は失敗です。たくましい中国人移民は、慣れ親しんだ自分たちの土地を去ることはせず、チャイナタウンを復興、いままで以上に繁栄させたのでした。