観光情報
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オアフ島中央部(セントラル) > ワイアウ,パール・ハーバー

太平洋航空博物館 パールハーバー ハンガー37
その中に2006年12月、「太平洋航空博物館パールハーバー」がオープンしたことはあまり知られていません。
ニイハウ島事件は英語で「Niihau Incident」。
こちらにはまた、知る人ぞ知る真珠湾攻撃秘話「ニイハウ島事件」に登場する、実物の零戦・・・の残骸が展示されています。今日は、ニイハウ島事件をご紹介しながら、館内を回ってみましょう。
アリゾナ記念館や戦艦ミズーリがあるパールハーバー・ヒストリック・サイトはここを左折。
「太平洋航空博物館 パールハーバー」があるフォード・アイランドは米軍施設ですので、直接自分で行くことは出来ません。アリゾナ記念館がある「パールハーバー・ヒストリック・サイト」から、施設内を巡る無料シャトルバスに乗車して向かいます。![]() 入口でチケットを見せると手首にリストバンドを巻いてくれます。 |
![]() 進んだ右手にミニシアター。日本人としてはいたたまれない真珠湾攻撃のドキュメント映画(英語)が上映されます。 |
![]() 何やら楽しげ。1940年代のハワイ。 |
![]() ここを通り抜けると・・・ |

実際に真珠湾攻撃に参加した零戦ではなく、ソロモン諸島パラレ島の密林から回収された残骸から零戦21型へと復元されました。
真珠湾攻撃の第二次攻撃隊制空隊として空母「飛龍(ひりゅう)」を飛び立った、愛媛県今治市出身の西開地重徳(にしかいちしげのり) 海軍一等飛行兵曹(略称「一飛曹」)は、当時21歳。敵機を撃墜したものの、自らの零戦も燃料タンクなどに被弾します。
真珠湾がどのように「奇襲」攻撃されたかの説明パネル。見るのがツライ・・・。
1時間にわたる攻撃のあと、西開地一飛曹は、もう1機とともに、戦列から遅れてしまいます。もう1機に搭乗していた石井三郎二飛曹は、ニイハウ島上空で海に突っ込み自爆しますが、西開地は、緊急着陸地として事前に通達を受けていたニイハウ島へ不時着する道を選びます。緊急着陸後は、潜水艦が救助に来ると聞かされていました。
タイトルもズバリ「THE NIIHAU INCIDENT」。事件についてのノンフィクションです。
ここでニイハウ島についてご説明しますね。
館内の説明には「NI'IHAU ZERO INCIDNET(ニイハウ島零戦事件)」と。
日本軍が不時着の場所としてニイハウ島を選んだのは、無人島だと思い込んでいたからとも、白人(アメリカ人)のいない島だからともいわれています。当時の島民数は約130人。2011年現在は約250人です。
2006年、博物館のオープンに際し、ハワイ州政府とロビンソン一族の協力のもと、西開地一飛曹機の残骸の大規模な捜索と回収が行われました。西開地によって火を放たれたあと、焼け残った重要部分は米軍が回収。エンジンは島民が保管。残りは65年間、野ざらしになっていました。

不時着した際の周りの様子を再現。
一方で、目覚めた西開地には友好的に接し、自宅へ連れ帰り妻の手料理をふるまうなどします。が、紙片が無いことに気づいた西開地が返却を求めるも、これを拒否。英語の読み書きは可能な西開地でしたが、込み入った会話は難しく、カレオハノは、ニイハウ島に存在していた3人の日本人のうち、広島県賀茂郡出身の日系1世、新谷石松(シンタニ・イシマツ)を通訳として呼びます。が、日米開戦を予感していた新谷は、深く関わることを嫌がり、西開地とわずかな会話を交わしただけでその場を立ち去ります。
日米のWEB掲示板で「映画化希望」と書き込みが。国が違っても考えることは同じ。
次に呼ばれたのが、カウアイ島生まれの日系2世、原田義雄(ハラダ・ヨシオ)です。両親は福島県からの移民で、当時すでに福島へ戻っていました。原田が妻ウメノや3人の子供と一緒に、カウアイ島からニイハウ島へ移住したのはこの時点より3年前のこと。親戚が、島の帳簿係を探していたアイルマー・ロビンソンに、原田を紹介したのです。ロビンソンに気に入られた原田は、「金を貯めてアメリカ本土へわたるチャンス」と、気の進まないウメノを説得します。原田は若い頃一時、カリフォルニアに住んでいました。ロクな教育も医療施設もない。流刑地のようだと反対していたウメノですが、結局は夫に従ったのでした。
真珠湾攻撃の展示の多さに、「リメンバー・パールハーバー」の言葉が頭をよぎります。
その晩、電池式のラジオによって、真珠湾攻撃は島民たちの知るところになりました。何事にも当主アイルマー・ロビンソンの指示を仰いでいた島民たちは、翌朝ニイハウ島を訪れることになっていたロビンソンに、西開地を任せればいいと判断します。普段はカウアイ島に暮らすロビンソンは、週に一度、ボートでニイハウ島を訪れるのが習慣でした。ところが翌月曜日、さらにそれ以降も、ロビンソンはやってきませんでした。実は、真珠湾攻撃の数時間後、アメリカ軍が一般の海上交通を禁止したのです。ロビンソンは、島民がランタンと反射板を使ってカウアイ島へ送るシグナルによって、何かしらの問題が起こったことを把握していましたが、島へ向かうことは出来ませんでした。
不時着した日から65年を経て、回収できたのは主翼の一部のみ。
その後の展開を羅列します。
ニイハウ事件の展示は以上です。格納庫を改造しただけあって広い館内。
○西開地と原田は、新谷が去ったあとのカレオハノ宅を訪れ、発砲。カレオハノはあわてて逃げ、ほかの島民にニイハウ島を離れないと危険だと言ったが、当初、島民たちは、いつも穏やかで親切な原田が発砲したとは信じなかった。
ミッドウェイ海戦の展示もあり。
○西開地と原田からの発砲を恐れて避難していた島民のうち、3人の島民が食料を取りに村へ戻り、西開地と原田に捕まる。
マネキンの衣装(軍服)も凝っています。
○人質として残った妻の身を案じて戻ったベン。ベンとエラは隙を見て、西開地に飛びかかる。
戦闘機の写真を撮りまくる男性陣、多し。
西開地一飛曹(戦死後少尉に特進)と原田の最後については、証言者が限られていることもあり、諸説あります。ハワード・カレオハノと、ベン・カナヘレは、のちに、この事件で果たした英雄的な役割をアメリカ陸軍から表彰されます(ベン・カナヘレにはルーズベルト大統領からの感謝の言葉も贈られました)。新谷石松は、拘留されたのちアメリカ本土の強制収容所に送られますが、無実と見なされ釈放。ニイハウ島の家族のもとへ帰ります。
キッズに人気の戦闘シュミレーション。
原田義雄の妻ウメノは2年7カ月の拘留ののち、(国家反逆罪など)罪に問われないまま釈放。ニイハウ島へ残した財産のほとんどが島民の手にわたっていることを知り、アイルマー・ロビンソンに財産を取り戻すことを相談するも、「キミたち夫婦には島民を信用するなと言っておいたはずだ」と、冷たい態度を取られます。ウメノは財産を取り戻せないまま、カウアイ島で洋裁店を営みながら苦労を重ねて3人の子供を育て上げます。戦後、ウメノが西開地の実家へ手紙を送り、また西開地の弟がカウアイ島のウメノを訪ねるなどの交流もありました。
こじゃれたセルフサービスのカフェ&レストランあり。
飛行予科練習生時代の同級生によると、「明るく活発」。実家の母親によると、「朝、目が覚めると、重徳がお茶を沸かしている音がする。『男が台所に立つもんじゃない』と言うと、『ボクがご飯を炊くよ。そうすれば母さんはもう少し寝ていられる』と。洗濯しているのを見つけ『男が洗濯なんてするもんじゃない』と言うと、「ボク、洗濯好きなんだ」と。少年の頃から母親思いの息子でした」。
しっかりとした食事や、コーヒー&スイーツもいただけます。
そんな西開地一飛曹の遺体は、1946年、「無名敵兵」としてニイハウ島からカウアイ島へ送られたのち、日本へ戻り、神奈川県で無名戦没者として葬られます。1956年になって、その遺灰が愛媛県今治市波止浜の西開地の実家へと帰りましたが、西開地一飛曹の御母堂は1947年、「重徳、重徳」と、その名を呼びながら亡くなっていました。
公式ウェブサイトには、ハンガー79の見学は「飛行士ツアー」に参加の場合のみ、とありますが、2011年3月現在、ツアーでなくても自由に見学できるようになっています。
西開地一飛曹がカレオハノに奪われた紙片は、アメリカ軍の発表によると、暗号表、航空図、航法諸元を記したメモ、とされていますが、真珠湾攻撃に参加した戦闘機は、暗号表や航法諸元は携行せず、航空図も機密を要するほどのものではなかったとか。ただ、若年のパイロットの場合、母艦の位置を書き込んでいた可能性があり、それが西開地が死を賭して取り戻そうとした理由ではないかといわれています。![]() ノースアメリカンF-86Eセイバー |
![]() 日英両語で説明があるのがグッドです! |
![]() ベルUH-1イロコイ |
![]() 戦闘機にも軍用機にも・・・ |
![]() これまでなんの興味もなかったナビですが・・・ |
![]() 見て回っているうちに、なんとなくコーフン! |

真珠湾攻撃時、パールハーバーの空を守っていたのが、こちら。カーチスP-40キティホーク。当時のアメリカ航空機業界を代表するカーチス社製。キャラが立ってますよね・・・アメリカってホント、キャラクターを生み出すのが上手い。

ハンガー79
ワイキキから、パールハーバー・ヒストリック・サイトへは、渋滞へ巻き込まれなければ、車で約30分の距離。市バス(ザ・バス)を利用して乗り換えなしの直通で行くことも出来ます。クヒオ・アベニュー山側の停留所から、20番か42番バスに乗車して、「アリゾナ・メモリアル Arizona Memorial 」で下車してください。上記の記事は取材時点の情報を元に作成しています。スポット(お店)の都合や現地事情により、現在とは記事の内容が異なる可能性がありますので、ご了承ください。
スポット登録日:2009-09-16
スポット更新日:2011-03-31